2025/04/21 10:46
『ページをめくる音が、今日いちばんの会話だった。』
「最近、静かだね」
放課後の図書室。陽が西に傾き始めた窓辺の席に、僕と彼女は並んで座っていた。
「うん。静かなの、好き」
由梨はそう言って、文庫本のページを静かにめくる。僕の方は、ノートを開いたまま、ほとんど手が止まっていた。
もともと、僕たちがここにいるのは、期末テストの勉強をするためだった。最初はそんな約束だったのに、最近は本ばかり読んでいる。とくに由梨は、ここ一週間ずっと同じ本を読んでいるみたいだった。
僕はページをめくる音が好きだった。特に彼女が本を読むときの音は、やわらかくて、なんだか耳に残る。話さなくても、それだけで一緒にいる実感があった。
「ねえ、それ何の本?」
「うーん……秘密」
「なんでさ」
「だって、ちゃんと読んだら教えてあげるって言ったじゃん」
「そっか。じゃあ、あと何ページ?」
由梨はしおりを挟んだページを見せてくれた。革のしおり。端にイニシャルが刻まれていて、ほんの少し焼けた色がいい味を出していた。
「それ、いいね。革のやつって初めて見たかも」
「おじいちゃんが、昔つくってくれたの。革職人だったんだって。手触りが好きでさ」
そう言って、彼女はしおりを軽く指で弾いた。
「本を読むときって、ページをめくる音が会話みたいに思えることあるの。何もしゃべってないのに、そばにいる感じがしてさ」
「……うん、わかるかも」
僕は、それから少しずつ由梨の読む音に耳を傾けた。ページをめくるたびに、彼女の呼吸のリズムが伝わる気がした。言葉じゃ届かない気持ちが、その音に包まれているような気がした。
*
ある日、彼女が学校を休んだ。
一日だけだと思っていたのに、二日、三日と続いた。連絡もなかった。心配だったけど、何もできなかった。ただ、彼女が座っていた席をぼんやり見つめるしかなかった。
一週間が経ったころ、図書室の本棚の端に、見慣れたものを見つけた。あの革のしおりだった。文庫本に挟まったまま、そっと返却されていた。
僕は思わず、その本を借りた。タイトルも知らなかったけれど、彼女が最後まで読みたかったものなら、僕も読んでみたいと思った。
ページをめくるたびに、彼女の姿が思い浮かんだ。あの静かな笑顔、指先のやさしさ、しおりを挟むときの細やかな所作。言葉では聞けなかった想いが、少しずつ胸に染み込んでくる。
最後のページを読み終えたとき、僕はしおりをそっと取り出して、胸にあてた。
ページをめくる音が、今日いちばんの会話だった。
そう思った。
*
数日後、由梨は戻ってきた。
「ごめんね、ちょっと風邪が長引いちゃって」
「うん、……おかえり」
「……本、読んだ?」
「うん。面白かった。なんか、すごく静かで、でも心に響いた」
由梨は笑って、カバンの中を探ると、何かを取り出した。小さな紙袋だった。
「それ、あげる。読んでくれてありがとう」
開けると、そこには新しい革のしおりが入っていた。前のものより少し濃い色で、端に僕のイニシャルが刻まれていた。
「ページをめくる音、また一緒に聞こうね」
僕はただ、うなずいた。
これからも、たくさんの言葉をかわしていくのだろう。でもたとえ言葉がなくても、このしおりを挟んだ本の中では、ちゃんと僕らは話している。そう思えた。